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神経生理学的読書

1935年に三笠書房の「ヴレーミヤ」に掲載された「初めてドストエフスキイを読んだ頃」という回想で萩原朔太郎は読書について「神経生理学的」に読むと語った。 

ポオも、ニイチェも、ショーペンハウエルも、僕はすべて我流の仕方で、神經生理學的に讀むのであり、さうでない限り、僕に讀書の興味はないのであるが、ドストイェフスキイの場合は、僕との氣質的類似の機縁で、特にそれがはつきりして居た。  

 朔太郎が「神経生理学的」と自身の読書論を形容したのは、意識的なものである。朔太郎は個人雑誌を「生理」と名付け、また、「詩の生理学を呼ぶ」という詩論を書き残した。

近代詩は今やその「肉体」と「生理学」を無くしてしまつた。近代詩は、今や正に心霊学に接近して、虚妄の幽霊にならうとしてためらつて居る。近代詩は、もはや人間の生きた呼吸ではない。それは抽象観念の形而上で、黄昏の闇に漂泊してゐる妄像である。即ちそれは「心理学」であつて、ポエヂイ(人間的感情の実体性)ではないところの、別の文学に変つてしまつた。
 近代詩の歴史は此処に終つた。僕等はその失はれた肉体のイデアを求めて、再度歴史を回帰しなければならないのだ。必要なものは「感情」なのだ。精神分析学への探求ではなくして、呼吸し、生活し、肉体が表現するところの生の感情。怒りや、悲しみや、愁ひや、沈痛や、悦ばしさやの、現実のナマナマとした感情なのだ。僕等は心理学に鬱屈して、今や生理学を呼び求めて居る。詩を再度肉体に復活させよ。そしてあの逞ましい野性のポエヂイ、即ち純正抒情詩のリリシズムを、新しく建設せよと言ふのである。

 朔太郎が求めた詩の「生理」とは何なのだろうか。心理学的な探求を虚妄であると言い、詩に肉感を探った。ポエヂイを「人間的感情の実体性」と言うのだ。感情の実体性。それは機械論と生気論、唯物論唯名論の間に響く「オルフェウスの声」の詩的思考の世界か。