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色彩療法(Chromotherapy)と夏目漱石の『それから』

色彩療法(Chromotherapy)が夏目漱石の『それから』(1910)のテーマであると書いたら、驚かれるだろうか。しかし、何も驚くベきことはない(ニル・アドミラリ)。漱石がそう書いているのだから。

それから十一時過まで代助は読書していた。が不図ダヌンチオと云う人が、自分のいえの部屋を、青色赤色に分って装飾していると云う話を思い出した。ダヌンチオの主意は、生活の二大情調の発現は、この二色ふたいろに外ならんと云う点に存するらしい。だから何でも興奮を要する部屋、すなわち音楽室とか書斎とか云うものは、なるべくく塗り立てる。又寝室とか、休息室とか、すべて精神の安静を要する所はに近い色で飾り付をする。と云うのが、心理学者の説を応用した、詩人の好奇心の満足と見える。

色彩療法は、漱石の時代に流行していた代替療法だった。この一節の心理学者の説の背景について、案内役を務めてくれるのが加藤有希子の『新印象派プラグマティズム―労働・衛星・医療』(2012)である。魅力的な目次はこちら

新印象派のプラグマティズム―労働・衛生・医療

新印象派のプラグマティズム―労働・衛生・医療

 

 同署は著者のデューク大学の博士論文として提出された。原題はColor, Hygiene, and Body Politics: French Neo-Impressionist Theories of Vision and Volition, 1870-1905。夏目漱石について扱った本ではない。新印象派について扱った本である。それにも関わらず、夏目漱石の『それから』を読むのにあたって、漱石について書かれたもの以上の手引きになる。なぜなら夏目漱石(1867-1916)が知っていた同時代の色彩療法について扱っているからだ。赤が興奮、青が安静の色であるという色彩と精神の呼応。これは19世紀末の色彩療法の言説であった。著者によると、精神の不安定を解消する手段として、1870年代から欧米で色彩療法が浸透したという。色彩療法の初期には赤と青の二色が精神の均衡を保つための重要な組み合わせとして推奨された。アメリカの色彩学者セス・パンコースト、フランスの心理学者シャルル・フェレ、ドイツの色彩学者オズボーン・イーヴスらが、赤が神経の興奮を高め、青は神経の興奮を静め、その両者のバランスをとることで神経の均衡が保てると主張していた。相対する二つ以上の力のバランスが取れた「均衡」(équilibre)が理想の状態とされた。

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著者は、赤と青をめぐったこうした色彩療法の周辺に新印象派の画家たちがおり、その創作が、単に美を追求したものというよりも、無政府主義とも関係を持ち、色彩療法的な配色を用いてwell-beingを目指した、芸術と生活の分水嶺にあったことを明かした。それは高踏遊民から世俗へ向かった『それから』の代助の軌跡と重なるものでもあるだろう。

ci.nii.ac.jp

しかし、『それから』の主人公、代助が、最後に辿りついた境地は、こうした色彩療法の赤と青の「均衡」とは隔絶したものだった。青木繁の「海の幸」のように「沈んだ落ち着いた情調」に居ることを代助は望んでいたが、裏腹に、赤の狂気に陥る。

 たちま赤い郵便筒ゆうびんづつが眼に付いた。するとその赤い色が忽ち代助の頭の中に飛び込んで、くるくると回転し始めた。傘屋の看板に、赤い蝙蝠傘こうもりがさを四つ重ねて高く釣るしてあった。傘の色が、又代助の頭に飛び込んで、くるくると渦を捲いた。四つ角に、大きい真赤な風船玉を売ってるものがあった。電車が急に角を曲るとき、風船玉は追懸おっかけて来て、代助の頭に飛び付いた。小包郵便を載せた赤い車がはっと電車とれ違うとき、又代助の頭の中に吸い込まれた。烟草屋たばこや暖簾のれん赤かった。売出しの旗も赤かった。電柱が赤かった赤ペンキの看板がそれから、それへと続いた。仕舞には世の中が真赤になった。そうして、代助の頭を中心としてくるりくるり※(「陷のつくり+炎」、第3水準1-87-64)ほのおの息を吹いて回転した。代助は自分の頭が焼け尽きるまで電車に乗ってこうと決心した。 (夏目漱石 それから