初期浮世絵展

千葉市美術館ではじまった初期浮世絵展覧会は、菱川師宣(?~1694)から鈴木春信(1725?~70)までを扱った展覧会である。浮世絵の展覧会と言えば、写楽、歌麿北斎、広重といった絵師たちが人気で、その活躍は文化文政の18世紀半ばごろが中心になるので、今回のように浮世絵のはじまりの時期だけ、つまり17世紀後半から18世紀前半の浮世絵だけをまとめて見られる機会はなかなかにない。展示作品にホノルル美術館、シカゴ美術館、大英博物館や個人蔵のものなど、普段、見られないものがあるので貴重であるというだけでなく、西欧が宗教から科学の時代にうつりかわろうとして、人間の肉体だって、ヴェサリウスの『人体の構造』が出て100年は経ち解剖学的な興味にさらされていた時期に、骨などまるでないかのような人々の絵があったことが貴重である。線は肉体の輪郭をなぞるのではなく、線でかこまれたものが肉体の記号になる。いったい浮世絵にはなぜあれほどに肉体の実感がないのだろう。たとえば、頬杖をつき軟体動物のように横たわっている「桜狩遊楽図屏風」の女たち。たいてい顔や手と足をのぞけば肉体は着物に包み隠されている。脛でもあらわにすれば、それは「あぶな絵」になるのだ。唯一、あぶな絵を多く手がけた石川豊信の女は肩幅があり、浮世絵にしては珍しく肉感がある。しかし他の絵師たちは、人間の肉体に重さがあることを忘れようとしているかのようだ。確固とした人間の肉体が成立していないので、浮世絵の肉体は他者にその領域への侵犯をたやすく許す。初代鳥居清倍の「二代目市川團十郎の虎退治」や、「金太郎と熊」では、人間と動物が絡み合いひとつの輪郭線の中に溶け込んでしまう。装飾や、文字が衣文として、刺青として肉体のうえに繁殖する。さらに時代が下れば葛飾応為の絵のように人間は影のシルエットにまで軽くなる。ニュートンが重力の実験をしていた時代に、重さを感じない人々の絵が徘徊していた。江戸の影人間たちに興味があればサントリー美術館の『「影絵」の十九世紀』(1995)図録に詳しい。

さて浮世絵の美人図の顔と言えば、喜多川歌麿の「寛政三美人図」のように切れ長の一重まぶたの顔立ちが思い起こされる。それは富本豊ひな、難波屋おきた、高島屋おひさの三人を描いたものであるが、実はみんな同じ顔だ。文化文政の頃には顔は典型として大量製造された。しかし、初期浮世絵にはまだ二重瞼の顔がある。「桜狩遊楽図屏風」では女は二重瞼で上瞼のアイラインが強調された顔だ。師宣の『伽羅枕』においても、二重瞼の顔が登場する。だが、だんだんと、時代がたつにつれて、顔はほとんど一重瞼の切れ長に典型化していく。だから、初期浮世絵には、浮世絵の顔が出来あがっていく過渡期の様子が見ることができて面白い。江戸時代も末期になれば、こうして典型となった浮世絵の顔も、今度は、徳川斉昭の命によってカメラ・オブスクラを用いて内藤業昌が描いた「水藩人物肖像」(1860)のように、即物的な写生表現になっていく。顔も時代で変わる。初期浮世絵において、師宣は、人間のかたちを墨刷りの線の単純な形に変えたが、今度は、肉体の実感に時代の興味がうつっていくのだ。いかに顔が描かれたかは茨城県立歴史科の『肖像画の魅力』(2012)図録に詳しい。それは江戸に舶来した科学の目によって見られた顔である。初期浮世絵の面白さは、光や影のもとに見られる以前の、観念的な人間のかたちが見られるからであろう。そして、二百年ちかくのあいだ、その理想的な顔のかたちが保たれた。しかし、幕末をむかえると、顔はくずれていく。幕末は、観念的な顔と、写実的な顔の揺籃期であった。例えば神奈川県立歴史博物館の『ペリーの顔・貌・カオ』(2012)の図録を開けば、黒船でやってきたペリーの顔はハイネのように写真を元にして描がかれた写実的なものから、瓦版で流通する過程で天狗のように人外の顔貌になったものまであり、人間の顔というのは、とらえがたく曖昧なものなのだ。

 

小林清親とターナー

 小林清親ターナーを知っていたのではないか。光線画の着想源はターナーではなかったか。江戸の花火を描いたと思われている≪両国花火之図≫は意外にもターナー≪レグルス≫に重なる。小林清親ターナー。二人の名前を結びつけて考えられてきた事があっただろうか。*1永井荷風以来、清親の絵は最後の浮世絵師、江戸への郷愁、明治のノスタルジーなど逝きし日の面影を追憶した言葉でつづられてきた。しかし、はたしてそれは清親にふさわしい形容であったのだろうか。両国の花火の光が古代ローマのレグルス将軍が失明した光と軌を一つにするイメージであるとしたら?高輪牛町を走る蒸気機関車がグレイトウエスタン鉄道のイメージであったら?燃えさかる浅草橋の大火がイギリスの国会議事堂の火災のイメージと重なるのだとしたら?江戸を情緒的に描いたという、いままでの清親観が一変するだろう。光線画が西洋風の表現を取り入れた事はこれまでも指摘されてきたが詳細は未詳であった。しかしターナーを鍵として見ることによってその秘密の一端をつまびらかにできる。清親とターナー。二人の絵は随所で共鳴しあう。例えば≪高輪牛町朧月景≫と≪雨、蒸気、スピード―グレイトウエスタン鉄道*2≪両国大火浅草橋≫≪国会議事堂の火災≫≪川崎月海≫≪海の漁師たち≫≪東京小梅曳舟図≫と≪月光、ミルバンクの習作≫≪橋場の夕暮れ≫≪アランデル城と虹≫など例は尽きない。細部においても例えば≪東京新大橋雨中図≫の水面の描写は、ターナー水彩画と一致している。≪天王寺下衣川≫のように逆光を活かした木々の描写の水彩画ターナーにはある。≪御厩橋雷雨≫の雷などはターナーの時代に英国で再評価された17世紀のオランダの画家アルベルト・カイプの≪ドルトレヒトの雷雨≫を思わせるし、清親の動物画や肉筆のライオンはダイアナ・ドナルドの『英国の動物画』(Picturing Animals in Britain)で論じられる英国の動物画と通じ、英国美術と清親の近さを感じさせられる。光や、雲など清親の天候の描写はアルベルト・カイプ、ターナー系譜に連ねて考えられる。アルベルト・カイプ、ターナーの連なりはイギリス人には自然に連想される教養でフレデリック・ワイズマンの『ナショナルギャラリー 英国の至宝』でもターナーの絵の前でアルベルト・カイプの話をする男が登場する。清親はそういったことをワーグマン(かだれか)を介して知っていたのではないだろうか。ワーグマンは≪海岸風景≫というターナー風の絵を残してもいる。弟はロイヤル・アカデミーの会員である。清親はこのような西洋美術、西洋人の目を通して江戸の光景を、明治を見ていたのではないだろうか。清親が描いたのは江戸への郷愁だけではなく、西洋と日本が重なる開化の幻景だったのではないだろうか。 日本版画協会により1936年に欧米で開かれた展覧会の図録では、清親はナチュラリストとして紹介されている。清親は浮世絵師の枠組みにおさまらない。

 「あの松を見たまえ、幹が真直まっすぐで、上がかさのように開いてターナーの画にありそうだね」と赤シャツが野だに云うと、野だは「全くターナーですね。どうもあの曲り具合ったらありませんね。ターナーそっくりですよ」と心得顔である。ターナーとは何の事だか知らないが、聞かないでも困らない事だからだまっていた。

 『坊ちゃん』(1906)の中で漱石は瀬戸内海に浮かぶ島をターナーの絵に見立てた。ここでは絵は現実の風景の写生ではない。現実が絵のようなものとして見られ、絵と現実の地位が逆転している。一枚の絵として現実の風景が切り取られる。「世界を一幅の『世界像』(ハイデッガー)として切り取り安定したものとして統御する欲望、技術」、このような美学を高山宏は広義のピクチャレクと称し明治の風景観の要としている。そして、そのピクチャレスクの目は西欧近代の中で、そのまなざしを崇高なる山から、テクノロジカルサブライムへうつす。

西欧近代の視覚文化の急展開のなかで、「山」がいかなることになり、それを見るピクチャレスクの目が、いかにやがて都会を「遊歩視」するアーバン・ピクチャレスク(そしてテクノロジカル・サブライム)にゆっくり変性していったか(高山宏夢十夜を十夜で』p.258)

このような西欧近代のピクチャレスクの目は小林清親にもあてはまるのではないだろうか。漱石の『坊ちゃん』(1906)に先立ち、1876年に始まる光線画においてターナーに通じた目で日本の風景を描き、そして、夜のフラヌール、やがてテクノロジカル・サブライムさながらの戦争の一大スぺクタクルに至り、清親の目も西欧近代のピクチャレスクの視線をなぞるかのようでもある。『新版三十二相』なんていう変顔づくしの観相学まであるのだ。

近年着目されてきたのが、清親が残した9冊の「写生帖」である。東京のあちこちを歩いて、さまざまな季節、さまざまな時間の風景を水彩スケッチで描き、水彩画そのままの版画を作ろうと試みた。(日曜美術館 番組解説) 

清親ははたして「写生」の画家であったのか。それを直接的な意味で現実を「写生」したものとして捉えるのには躊躇しなければならないのではないだろうか。なぜならば、例えば≪両国大火浅草橋明治十四年一月廿六日出火≫のように日付まで記入されあたかも事件を記録したジャーナリスティックなものに思えるものでさえ、ターナー≪国会議事堂の火災≫の翻案として見えるからだ。*3火事の中スケッチ帳をほんとうに清親は持ち出し飛び出したのだろうか。

 ターナーを起点に広義のピクチャレスクの観点で小林清親を見直せば、清親が素朴な意味での「写生」の画家ではなかった事が見えてくる。清親の創作は現実に対峙し、その光景を写生したというよりも、むしろ幻景だったのではないか。 

 

参考文献

書籍

酒井忠康『開化の浮世絵師・清親』(平凡社ライブラリー)、2008

小林清親 文明開化の光と影』青幻舎、2015

論文

加藤陽介「小林清親の洋風表現について」『鹿島美術財団年報』(14別冊)、1997

山梨絵美子「小林清親「高輪牛町朧月景」をめぐって」『美術研究』(338)、1987

*1:管見の限り、出版物、論文にはその指摘はなく、図書館司書、米澤誠のブログ≪両国大火浅草橋≫について指摘された記事があるのみ。

*2:この絵は山梨絵美子によりアメリカの版画との関係が指摘されているが、朧月景という着想や全体の構図はターナーに依拠しているのではないだろうか。

*3:火事の絵は山梨絵美子が影響関係を指摘したカリアー&アイヴス社の版画を見た可能性もある。加藤陽介の指摘にもあるように小林清親の≪猫と提灯≫なども同社の版画と類似し、複数の作品において小林清親は西洋美術を参照していた。