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小林清親とターナー

 小林清親ターナーを知っていたのではないか。光線画の着想源はターナーではなかったか。江戸の花火を描いたと思われている≪両国花火之図≫は意外にもターナー≪レグルス≫に重なる。小林清親ターナー。二人の名前を結びつけて考えられてきた事があっただろうか。*1永井荷風以来、清親の絵は最後の浮世絵師、江戸への郷愁、明治のノスタルジーなど逝きし日の面影を追憶した言葉でつづられてきた。しかし、はたしてそれは清親にふさわしい形容であったのだろうか。両国の花火の光が古代ローマのレグルス将軍が失明した光と軌を一つにするイメージであるとしたら?高輪牛町を走る蒸気機関車がグレイトウエスタン鉄道のイメージであったら?燃えさかる浅草橋の大火がイギリスの国会議事堂の火災のイメージと重なるのだとしたら?江戸を情緒的に描いたという、いままでの清親観が一変するだろう。光線画が西洋風の表現を取り入れた事はこれまでも指摘されてきたが詳細は未詳であった。しかしターナーを鍵として見ることによってその秘密の一端をつまびらかにできる。清親とターナー。二人の絵は随所で共鳴しあう。例えば≪高輪牛町朧月景≫と≪雨、蒸気、スピード―グレイトウエスタン鉄道*2≪両国大火浅草橋≫≪国会議事堂の火災≫≪川崎月海≫≪海の漁師たち≫≪東京小梅曳舟図≫と≪月光、ミルバンクの習作≫≪橋場の夕暮れ≫≪アランデル城と虹≫など例は尽きない。細部においても例えば≪東京新大橋雨中図≫の水面の描写は、ターナー水彩画と一致している。≪天王寺下衣川≫のように逆光を活かした木々の描写の水彩画ターナーにはある。≪御厩橋雷雨≫の雷などはターナーの時代に英国で再評価された17世紀のオランダの画家アルベルト・カイプの≪ドルトレヒトの雷雨≫を思わせるし、清親の動物画や肉筆のライオンはダイアナ・ドナルドの『英国の動物画』(Picturing Animals in Britain)で論じられる英国の動物画と通じ、英国美術と清親の近さを感じさせられる。光や、雲など清親の天候の描写はアルベルト・カイプ、ターナー系譜に連ねて考えられる。アルベルト・カイプ、ターナーの連なりはイギリス人には自然に連想される教養でフレデリック・ワイズマンの『ナショナルギャラリー 英国の至宝』でもターナーの絵の前でアルベルト・カイプの話をする男が登場する。清親はそういったことをワーグマン(かだれか)を介して知っていたのではないだろうか。ワーグマンは≪海岸風景≫というターナー風の絵を残してもいる。弟はロイヤル・アカデミーの会員である。清親はこのような西洋美術、西洋人の目を通して江戸の光景を、明治を見ていたのではないだろうか。清親が描いたのは江戸への郷愁だけではなく、西洋と日本が重なる開化の幻景だったのではないだろうか。 日本版画協会により1936年に欧米で開かれた展覧会の図録では、清親はナチュラリストとして紹介されている。清親は浮世絵師の枠組みにおさまらない。

 「あの松を見たまえ、幹が真直まっすぐで、上がかさのように開いてターナーの画にありそうだね」と赤シャツが野だに云うと、野だは「全くターナーですね。どうもあの曲り具合ったらありませんね。ターナーそっくりですよ」と心得顔である。ターナーとは何の事だか知らないが、聞かないでも困らない事だからだまっていた。

 『坊ちゃん』(1906)の中で漱石は瀬戸内海に浮かぶ島をターナーの絵に見立てた。ここでは絵は現実の風景の写生ではない。現実が絵のようなものとして見られ、絵と現実の地位が逆転している。一枚の絵として現実の風景が切り取られる。「世界を一幅の『世界像』(ハイデッガー)として切り取り安定したものとして統御する欲望、技術」、このような美学を高山宏は広義のピクチャレクと称し明治の風景観の要としている。そして、そのピクチャレスクの目は西欧近代の中で、そのまなざしを崇高なる山から、テクノロジカルサブライムへうつす。

西欧近代の視覚文化の急展開のなかで、「山」がいかなることになり、それを見るピクチャレスクの目が、いかにやがて都会を「遊歩視」するアーバン・ピクチャレスク(そしてテクノロジカル・サブライム)にゆっくり変性していったか(高山宏夢十夜を十夜で』p.258)

このような西欧近代のピクチャレスクの目は小林清親にもあてはまるのではないだろうか。漱石の『坊ちゃん』(1906)に先立ち、1876年に始まる光線画においてターナーに通じた目で日本の風景を描き、そして、夜のフラヌール、やがてテクノロジカル・サブライムさながらの戦争の一大スぺクタクルに至り、清親の目も西欧近代のピクチャレスクの視線をなぞるかのようでもある。『新版三十二相』なんていう変顔づくしの観相学まであるのだ。

近年着目されてきたのが、清親が残した9冊の「写生帖」である。東京のあちこちを歩いて、さまざまな季節、さまざまな時間の風景を水彩スケッチで描き、水彩画そのままの版画を作ろうと試みた。(日曜美術館 番組解説) 

清親ははたして「写生」の画家であったのか。それを直接的な意味で現実を「写生」したものとして捉えるのには躊躇しなければならないのではないだろうか。なぜならば、例えば≪両国大火浅草橋明治十四年一月廿六日出火≫のように日付まで記入されあたかも事件を記録したジャーナリスティックなものに思えるものでさえ、ターナー≪国会議事堂の火災≫の翻案として見えるからだ。*3火事の中スケッチ帳をほんとうに清親は持ち出し飛び出したのだろうか。

 ターナーを起点に広義のピクチャレスクの観点で小林清親を見直せば、清親が素朴な意味での「写生」の画家ではなかった事が見えてくる。清親の創作は現実に対峙し、その光景を写生したというよりも、むしろ幻景だったのではないか。 

 

参考文献

書籍

酒井忠康『開化の浮世絵師・清親』(平凡社ライブラリー)、2008

小林清親 文明開化の光と影』青幻舎、2015

論文

加藤陽介「小林清親の洋風表現について」『鹿島美術財団年報』(14別冊)、1997

山梨絵美子「小林清親「高輪牛町朧月景」をめぐって」『美術研究』(338)、1987

*1:管見の限り、出版物、論文にはその指摘はなく、図書館司書、米澤誠のブログ≪両国大火浅草橋≫について指摘された記事があるのみ。

*2:この絵は山梨絵美子によりアメリカの版画との関係が指摘されているが、朧月景という着想や全体の構図はターナーに依拠しているのではないだろうか。

*3:火事の絵は山梨絵美子が影響関係を指摘したカリアー&アイヴス社の版画を見た可能性もある。加藤陽介の指摘にもあるように小林清親の≪猫と提灯≫なども同社の版画と類似し、複数の作品において小林清親は西洋美術を参照していた。